2006年10月27日 中村京蔵創作の夕べ 「山月記
 
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10月27日(金)、青山銕仙会能舞台に於きまして、「中村京蔵 創作の夕べ」を開催いたしました。
中島敦作「山月記」の舞台化、これは私の長年の懸案でございました。この「山月記」は、芸術家を目指した人間の苦悩と挫折と狂気がよく描かれている中島敦の代表作です。これまでも「冥の会」やオペラ、また昨年は野村萬斎師による上演など様々に舞台化されてまいりましたが、私は以前より、義太夫の地を用いて、能舞台での上演が可能ではないかと模索しておりました。今回不図も、日頃ご指導いただいております諸先生方のお力添えをもちまして実現の運びに至りましたことは望外の喜びでございます。

【舞台写真】
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既に、虎となれり!
嗤ってくれ。詩人に成りそこなって虎になった、哀れな男を
我が臆病な自尊心と尊大な羞恥心、それが虎だった
その声は、我が友、李徴ではないか?
最早、別れを告げねばならぬ
虎は二声三声咆哮したかと思うと、再びその姿を見なかった

【楽屋・他
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扇を誂えました。地色は夜明け前の薄明を表し、表は残月、裏は薄の叢を描いて頂きました
舞台稽古の照明合わせ。月光の具合とふたりの居所がなかなか難しいところです
会場ロビー。たくさんのお花を頂戴致しました
開演30分前。再度、台本を確認
開演5分前。服装を再チェックしながら、緊張の面持ちの私と高澤師
高澤師と萩原先生と私。萩原先生には大変しごかれました!

我が旧師武智鐡二の著書「蜀犬抄」の序文にはこうある「蜀の国は霧が深くて太陽も霧に霞んでいる。それに向かって犬が吠える。そうすると、太陽が怖くて吠えているのか、太陽に憧れて吠えているのか、その犬の悲しい気持ちは誰にもわからない」

また武智は「病を得てこそ本物の芸術家だ、芸道修行とはそういうものだ」とも言っている。

「山月記」の李徴という人間を想うとき、私はこの武智の言葉の中に、李徴の姿が陽炎のように浮かび上がる。しかし、李徴は虎になるほどの、道を究めた芸術家だったのか、はたまた、(虎ならぬ)人生の負け犬だったのか、本当のところは、実は李徴自身にもわからないだろう。

李徴の裡には、虎となって兎を喰らう甘美な陶酔と、それが醒めた時の自己嫌悪が矛盾を孕んで同居しており、やがてそれはひとつになって、荒涼たる月の砂漠へと踏み出して行く。そこに究道ということの残酷性があり、その虚無感が私にもよくわかる。李徴の人生はひとごとではない。私も今宵、月に向かって吼えてみようと思う。
- 「山月記」パンフレット “月に向かって吼える”より抜粋 -


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