雀右衛門伝説 バックナンバー
雀右衛門伝説 第5章 葛の葉研究 その6
庄司「構えて仕損じ給うなよ」 保名「心得ました」で、また機織りの効果音GO
〈物置の陰にその身を忍ばるる の竹本で庄司が物置小屋に入るのを見届けてから、保名は、内へ入り、枝折戸を閉め、座敷に上がって風車を右手に持って
上手〈機屋と二枚折内の童子)に思い入れしてちょい決まるのが、〈保名ことなき風情にて のカカリ
二枚折に近寄って、左手を二枚折に掛けて童子を見込んで台詞。少し前に出て「童子が母はおわせぬか」となる。
この「童子が母は」あたりで、機織りの効果音OFF.保名は屋体中央に坐り、脇差を抜いて左に置き、風車を右に置く。
〈と呼ばわれば(中略)所体つくろい立ち出づる 一杯に葛の葉は機屋より出て(合方カカル)、台詞を云いながら保名の下手に坐す。
(片襷のみで、姐さん被りのさらしはすでに外した思い入れで畳んで帯の右側に挟んでおく)
この葛の葉の台詞「お肌寒うはなかりしか」は、本行文楽では狐言葉の口伝のあるところだが、師雀右衛門は「保名に云う『お肌寒うはなかりし、か』の台詞の か などは咽喉の奥を使っての狐言葉で、文楽のほうでは云っていられますが、私は芝居の底を割るやうな気がいたしますので、申しておりません」との見解を述べている。
保名が童子への土産だと云って風車を渡すので、葛の葉は受け取って、寝入っている童子の枕元に置く。その時、外した襷を 二枚折の陰へ隠す。
保名が「わしの留守の間に、誰も来はせなんだか」と」いうので、そばに戻った葛の葉は「オオそれそれ、何時に見慣れぬ木綿買いが(来た)」と受けるので、保名は木綿買いに事寄せて、女相手の商売だから、お前の手を握っただろうとからかい、葛の葉の左手を両手で取る。左手は下から右手は上から。
その上の右手を袖口にそっとずらして、変化のものか?と手首を調べるのである。合方OFF.
葛の葉「何のまあ、阿呆らしい」ト、保名の手を外すので、間髪入れず、保名「アノここな畜生め」と真顔でキッと云うので、葛の葉はハッとして下手向き両袖で身体を抱いて身を固くし、両人思い入れ。気味合いの笑いになり、両人大きく笑うと合方GO.
「畜生め」とは軽い嫉妬心で云うからかう言葉だが、ここでは保名の葛の葉への不審(狐狸ではないか?)との気持ちが二重になっており、思わず云われて葛の葉がドキッとする段取りはよく出来ている。しかし、この「アノここな畜生め」の保名の台詞は難しい。
記録に拠れば、13代目仁左衛門丈の保名(昭和41年6月 東横ホール)は、この葛の葉詮議で、天眼鏡を用いたとあり、それが滑稽だが哀れで大変よかったと仄聞する。いわゆる、二枚目半、つっころばしの味わいなのであろう。是非、研究して継承して頂きたい型である。
さて、帰る道々庄司殿ご夫婦に逢い、日暮れには訪ねて来ると云っても一向に顔色を変えない女房に、保名は益々不審感を募らせ、「そなたも衣服を着替えて対面しや」と言い置いて、その場に居眠ってしまう(振りをする)
葛の葉は、二枚折の陰より枕を取って来てあてがい、「ここでは風邪を引くから、奥へ行って寝たがよい」と促すが、保名は目を覚まさない。その夫の姿を見込んで思い入れ(空二)、下手向きに足を替えて思い入れ(キッパリと空二) ここの三味線の空二(カラ二)は重要で、絶望して意を決した葛の葉の思い入れだからである。
「どれ今の間に、髪なと撫でつけておきませうか」の台詞も無表情に思いは深く。
竹本〈妻は心も晴れやらず、思いを包む小がいまき、心残して入りにける で童子を抱いて立って、ツツツと前へ出て、向こう(庄司夫婦と葛の葉姫)に思い入れするのが、〈心残して にはまり、ハッとして保名を振り返るのが、チンの三味線に当たって、〈入りにける 一杯に奥へ入る。この入りが、竹本さんに引っ張るだけ引っ張ってもらって、十分に思い入れして入るのが師の独壇場。
したがって、後見が開ける暖簾口のじゃり糸の介錯も、師の身体を覗き穴から見ながら、ぎりぎりにゆっくり開ける。「葛の葉の気持ちになって開けるんだ!」と私がさんざん叱られたところ。
葛の葉が奥に入ったところで、保名は起き上がり枕を膝に置いて不審の思い入れ。暖簾口から奥を覗いて、鏡台に向う女房の姿を見て「やはり変わらぬ女房葛の葉。どっこにひとつの云い分なし。
(中略)もしや庄司殿ご夫婦が」と、こんどは庄司夫婦達に不審の目を向け、ゾッとして両手で身体を抱き、神棚に向かって坐り、柏手。立って御幣を取り左右に払い、前へ出て、御幣を右手逆手に持ち替えて立ち見で決まるのが〈不審立ってぞ 一杯で柝のかしら。後ろ向き坐って、暖簾口を見込むのが二の柝、三重風音で、上出しで舞台回る。

雀右衛門伝説 第5章 葛の葉研究 その5
ト、〈野辺の若草 の唄(黒御簾)になり、向こうより保名の出。
保名は、油付き前茶筅のあたま。黒縮緬地藤色の肩入れ着付に鶸色織物の帯(割挟み)素足に浅葱色鼻緒の草履、一本差し、黒塗りの小ぶりの編み笠、童子への土産の風車を持ち(腰に差すこともあり)、また、八卦見の仕事帰りという思い入れで、仕事道具の入った信玄袋を持つこともある。いずれにしても、典型的な二枚目やつしの扮装である。
保名が七三に掛かると庄司が呼び止め、保名も気付いて「これは、これは」となり、本舞台に入り、お互い礼を交わすのが、竹本〈喜び合うこそ道理なれ 一杯。
保名は再会を喜び、内の中に案内しやうとすると、庄司が「その前に渡すものあり」と葛の葉姫を呼び出す。小屋内で柵が「これ娘、ちゃっとお側へおじゃいのう」というのが竹本の掛かり。
〈引き合されて葛の葉は、で、まず柵が先へ出て保名にお辞儀をし、恥ずかしがる葛の葉の手を取って引き出して、保名殿にご挨拶なさいと思い入れして、葛の葉と入れ替わり、姫はおずおずと保名の側に寄るのが〈云わで心を知れかしの 一杯。姫は恥ずかしがって柵のもとに駆け戻ると柵は姫の肩を突くので、姫はおこついて保名と顔を見合わせるのが〈顔に会釈ぞ シャランの三味線に当たって、姫は恥ずかしそうに保名に背を向けて坐って両袖で顔を隠すのが〈こぼれける 一杯。
この両袖の角度、顔に持ってくる呼吸が、人形を学んだ師独特の技法、風情で他に真似手のないところ。
保名は恐縮し、自分の留守の間に葛の葉に会って衣服を着替えさせたのだろうと早合点し、この六年あまりの音信不通の言い訳をせんと、「お聞きなされてくださりませ」で合方掛かり。保名は木戸脇に坐り、姫と柵は庄司と入れ替わり、姫と柵は坐り、庄司は真中で立ったまま、保名の話しを聞く。
保名が「安部の童子と云える男子を儲け」というので、庄司、姫、柵は大いに驚く。
保名「孫めに免じて幾重にも、ご容赦なされてくださりませ で合方止む
保名「もし、母様、お取り成しくださりませ」  ト、手を突いて詫びるのが竹本〈身を投げ伏して、詫びにける 一杯。 ここよりまた、機織りの効果音GO
庄司が「機織る人を覗いてお見やれ」と」いうので、保名は機織りの音に気付いて「誰が機を織るやらん」と思い入れ。
内へ入って機屋を褄障子から覗いてびっくりし、「あちらにも葛の葉、こちらにも葛の葉、こりゃどうじゃ」と機屋の葛の葉 を指し、木戸外の葛の葉を指して狼狽し、抜き足差し足でもう一度機屋を覗いて再度驚いて、両手で庄司を差し招いて小走りに木戸外に出て、木戸に左手を置いき、右手を懐手して思い入れするのが〈ただ呆然たるばかりなり 一杯。
機織りの効果音OFF
姫は「やれ嬉しやと来てみれば、保名様には奥様があるとのこと。わたしゃどうしょう、どうしょうぞうなあ」と泣き伏す。
師は「奥様があるとのこと」を云わず、「保名様には」と云いさして思い入れして、「わたしゃどうしょう」となる。
庄司が「これにはなんぞ仔細ぞあらん」と、姫と柵にしばらく物置小屋に忍んでいろと促す。
柵「娘、おじゃ」 姫「アーイ」で柵は姫の右手を取って立たせ行き掛ける。姫は保名を振り返り、戻り掛けると、柵が「これ」と制止するのが〈なだめすかして チンの三味線にはまり、姫は泣く泣く小屋に先に入り、柵が庄司に思い入れして小屋の戸を閉めるのが〈連れて行く 一杯。
庄司「保名殿、ちょと御意得たい」
保名「ハー」で合方掛かり、庄司は二人葛の葉の詮議をするやう保名に命じる。
保名「一句一指の手段あり」で合方止み、竹本〈物置の陰にその身を忍ばるる
 一杯に庄司は小屋に入る。この間、機織りの音は止んでいる。女房葛の葉は、絶望して機織る手が止まっているのである。
雀右衛門伝説 第5章 葛の葉研究 その4
さて、国立劇場上演資料集〈510〉に、「舞台裏スケッチ」佐藤三重三・絵として、大正5年9月新富座での三世中村雀右衛門(当時、芝雀)の葛の葉上演時の冒頭の早替りの様子がスケッチされたものが四ページにわたり掲載されている。これは、大正五年10月玄文社発行「新演芸」第1巻第8号から転載されたもので、大変興味深い資料である。ご興味のある方は是非ご覧頂きたい。
この資料に依ると早替りの手順は現行とほぼ同じであるが、ひとつだけ異なるのは、姫の出が現行は駕籠に乗って来た思い入れで下手から出るが、この資料では、先代は花道揚幕から庄司夫婦と連れ立って出たらしい。らしいと云うのは、この資料では舞台下手から奈落を通って揚幕に向かうとあって、出は駕籠とも徒歩とも記載がないからである。しかし、せっかく早替りをして揚幕まで飛んで行ったのだから、出は当然徒歩で出ないと効果がないから、出は徒歩だったと断定したい。
さて、当代芝雀丈が平成20年3月に国立大劇場で葛の葉を上演した際、私も母柵を勤めさせて頂いたが、この公演は引き続き沖縄と石垣島での巡業があり、石垣島の会場が仮花道で狭く、駕籠が出せないので、国立の製作側が花道からの徒歩での出を提案し、その為に増補された竹本の詞章も探し出されたので、協議の上、姫が塗りの妻折り笠と銀の杖を持って出るのも水くさく、あとの処理にも困るので、柵の杖にすがって(八段目の小浪よろしく)出ることとした。
なお、衣裳の早替りの仕掛けは、現行はマジックテープを用いるが、師の話しによれば、昔は針金のようなもの(銅線?)を使っていたそうであるが、私は一度も経験がなく、どのやうなものか予想がつかない。

現行演出に戻って、庄司一行が本舞台に入ると、駕籠は下手大臣柱見切りのところへ半分隠すやうに置く。柵の「ちゃっと出やいのう」で、姫は下手陰で「アイ、アーイ」と返事をする。ト、陸尺が駕籠の戸を開け、履物を揃える(振りをする)。姫は寺子屋の松王丸よろしく、下手陰から駕籠にしゃがんですり寄り、駕籠から出た思い入れですっくと立つと陸尺が草履を穿かせる(振りをする。草履はすでに穿いている) 姫は正面を向いていそいそと前で出て、柵に思い入れして、庄司の脇に坐るのが、竹本の〈いそいそとして立出づる 一杯。ここで機織りの効果音OFF。女房葛の葉は、本物の葛の葉姫が現れたので驚愕して、思わず機織りの手が止まるのである。
父庄司はしかし、六年間も保名とは音信不通だったのだから、心変わりをしているかもしれない。まず、自分が保名の心底を確かめた上で姫に会わすといい、姫と柵を下手木戸外の物置小屋に隠す。早替りの手順とは言い条、上手い段取りである。物置に入った姫は上手の機屋に急行し、女房に替る〈資料集のスケッチ参照)、庄司が案内を乞い、返事がないので内に入り「御留守かな」と云うと、間髪入れず機屋の窓障子(向かって左側)を開けて、女房葛の葉が「はい、どなたじゃえ、どなたじゃえ」と顔を出す。「やあ、そちゃ何時の間に」と驚く庄司。
「マ、何のことじゃぞいなあ」とぴしゃりと窓を閉めて、脱兎のごとく下手物置小屋に走って、姫に戻って何食わぬ顔で出る。この姫→女房→姫の行って来いが早いので、いつも客席の拍手が湧き上がるところ。合方に掛かると効果音GO。庄司が、娘が機を織っているというので、そんなばかなと今度は柵と姫が覗きに内へ入る。柵が先に窓障子を覗いてびっくりし、姫も覗くのが、竹本の〈覗けば見交わす顔ばかり 一杯。姫は後ろ向きで「覗くは誰じゃえ」と女房の付け声。その途端に窓障子が開いて、女房葛の葉(吹き替え)が一瞬顔を出すので、姫と柵は驚いて、木戸外に逃げ戻り、姫は坐って柵の腰に取り付くのが竹本〈逃げ出づる 一杯。
庄司「不思議と云おうか」 柵「奇妙と云おうか、庄司殿」 庄司「柵」 姫「父様」 竹本〈三人顔を見合わせて、溜息ついたる折柄に で三人が思い入れ。竹本〈立帰る安部の保名 の呼びで、庄司は向こう(歌舞伎の用語で、向こうとは花道の揚幕のこと)に保名の姿を認めて、姫と柵を物置小屋に隠す。しばし聞こえていた機織りの音はまた途絶える。保名の帰宅に女房葛の葉は更に心を曇らせるのである。
雀右衛門伝説 第5章 葛の葉研究 その3
竹本の〈折柄童子が道草に の呼びで、カンカラ太鼓、バタバタで童子(お河童あたま、鶸色の着付け、冷や飯草履)が竹の先にやんまを釣り下げ、肩に担いで花道より駆け出て、七三で左足を踏み出しバッタリ決まる。
チンチリトチチリチリトチチンの合方で2〜3歩スキップして本舞台に入り、門口を開けて母を呼ぶ。
ト、機織りの音が止んで、竹本〈云う声聞きつけ母親は で機屋正面の窓障子(向かって左側)が開いて、姉さん冠り姿の葛の葉が上半身を見せてすぐ閉め、褄の障子を開けて出て、姐さん冠りの手拭を取りながら、童子に声を掛け、門口に寄る。

葛の葉の拵えは、帽子付き蓑の潰し島田(月形の木櫛、蛙又の平打ち、白の葛引きを根に掛ける)。
着付けは襟付栗梅の石持ち、黒繻子の丸帯を角出しに締め、甕覗きの帯揚げ、蹴出し。縞模様の前垂れ、切り継ぎの襷。着付け、襦袢、帯はすべて早替りの為に着脱が容易な仕掛けとなっている。

葛の葉は童子をたしなめて、両手を雑巾で拭い、裾を払って(草履は隅に、やんま釣りの竹は桶の脇に置く)、屋体中央に童子を連れてくる。〈なお、童子はかなり幼児の為、草履が無理な時は素足とし、その場合は両足も雑巾で拭う)

襷を取りながら葛の葉は童子に、「昨日も父様の仰云るには、今から殺生好んでは、ろくな者にはなられまい。必ず虫けらの命を取るなと、お叱りなされたを忘れてか」と諭し、言い含める。葛の葉は我が子が殺生を好むのも、畜生の血ゆえかと心を曇らせるのである。
しかし童子は、「母さま、わしゃ、ねむたいわいなあ」と無邪気にせがむので、「そんなら、お乳を呑んでねんねしや」と抱いて、上手の布団に寝かせ、二枚折屏風を立て回して、添え乳をする思い入れで葛の葉も横になり屏風に隠れるのが、竹本〈いかなる夢をやむすぶらん一杯。カラ二で繋いで、童子が寝付いた思入れで屏風から出て、「どれ、織りかけた機にかかろうか」と左袂から襷を出して、童子を振り返りながら機屋に入るのが、竹本〈また機前にさしかかる一杯。竹本〈折柄ここへ庄司夫婦 の呼びで機織りの効果音再びGO。

ト、黒御簾の〈千草色々 の唄入り合方になり、向こうより、信田庄司と妻の柵と娘の葛の葉姫が乗った駕籠乗り物(大名駕籠、芝居ではあんぽつと通称)を陸尺ふたりが舁いで出る。
さて、女房葛の葉と葛の葉姫は二役早替りなので、上手の機屋に入った女房葛の葉は、まず、上手で鬘と衣裳を脱ぐ。衣裳は帯上げを解き(角出しの結び目がまず取れる)、帯の抱きの部分のマジックをべりべり剥がすと着付け、襦袢、帯ごといっぺんに脱がすことが出来る。
ト、蹴出し(腰巻)一枚になった師は、たくし上げていた姫の前掛け仕様の蹴出し(赤地縫い取り模様)を自分で下しながら下手に走り、まず、足袋(コハゼはマジック)を穿き、姫の振袖と振り下げ帯がすべて合体した衣裳をひと息で着て、あたまを掛ける。
あたまを掛けている間に弟子が草履(赤地鼻緒の京草履)を穿かせ、胸元に懐紙、帯に扇(朱色房付、金銀、塗骨、8寸仕様)を挟み、早替り完了。
このように、上手の拵え場、下手の拵え場にそれぞれ別々に衣裳さん、床山さん、弟子が待機して、脱がす、着せるを分担するのである。

姫の衣裳は繻子地、朱掛かった赤地に金の雲と、色挿し縫い取りの葛の葉模様、両袖に金房を下げる。繻子地というのは古風なのである。
帯は黒地に金銀の香の図と色挿し縫い取りの向かい雀と梅の模様、玉子地の扱きを結ぶ。

あたまは、帽子付、蓑の吹き輪だが、師は文楽式に髷の根に錦の裂れを巻き、髷のうしろに金の房を付ける。これも古風でよいもの。
ちなみに女房は眉がなく、姫は帽子付だから八の字眉を引く。この仕掛けは企業機密だから明かせないが(笑)、当代猿之助丈が一昨年の「亀治郎の会」で師の通りの葛の葉をなさるというのでお手伝いしたが、この仕掛けに驚嘆されていた!


信田庄司(胡麻の棒茶筅、織物の打裂き羽織野袴、柄袋付大小、深編笠、福草履)
妻 柵(胡麻の下げ下地、織物の襠端折、菅の褄折れ笠、白竹の杖、鼠地鼻緒の二枚草履)
雀右衛門伝説 第5章 葛の葉研究 その2
では、第一場より詳しく見てみやう。

第一場 阿部保名内 機屋の場

機屋とは、機織り場のことで、女房葛の葉が手内職で機を織っているのである。
上手の屋体がそれで、正面は早替りの都合上、下約四尺が鼠壁で上が窓障子になっている。
本屋体との間は半間の板敷の廊下になっており、機屋としての独立性をみせているが、巡業や地方公演の折、劇場が狭い場合はこの廊下は割愛する。
第一場の屋体は、演出の都合上平舞台で、現行は山城屋丈はじめ、何方も平舞台だが、記録写真を見ると、昭和31年12月歌舞伎座での、六世歌右衛門丈所演では、二重屋体である。
正面は紺地に白抜きわらび模様の暖簾口その上(かみ)の床の間に、天照皇大神のかけじを掛け、御幣や、盛り塩、盛り飯などの八ッ足台を置く。さらその上(かみ)の押入れの前に童子を寝かす布団を敷き、二枚折で囲う。あとで保名にあてが箱枕もこの二枚折のうしろに置いておく。いつもの処に山木戸。その脇に桶、柄杓、盥、雑巾を置く。その奥は囲炉裏、茶道具等。
下手屋体外に物置。この物置は早替りの動線の都合上、出入りの木戸は向かって左側が開け閉め出来ることが必須条件。また本屋体との間は野遠見のだまし絵にすることも肝心である。師は昭和51年12月の京都南座での所演(雀右衛門襲名後の初演)以来、関西の舞台美術家大塚克三氏の道具帳に準拠している。

〈仕事かたよせ の在郷唄で幕開くと、木戸口の上がり端に木綿買(荏柄段八)が坐り込み、織りだめの木綿はないと断ってすでに機屋に引っ込んだ葛の葉の背中を追っている思い入れ。帰り支度(煙管をしまい、煙草入れを腰に差し、道中合羽を畳んで左手に持ち)をして、物欲しげに内の中の様子を伺い、外に出ると、同じく木綿買にやつした手下二人(風呂敷包みを背負い、菅笠を被り、手甲、脚絆、尻端折り)が下手より出て、ひそひそ話。彼らは石川悪右衛門の家来達で、この家の女房こそ、悪右衛門が執心する葛の葉姫(本物)と目星を付け、引っ浚う手筈をして、風音で下手に入る。
風音打ち上げ、「所も、阿倍野の芦垣の」と、床の浄瑠璃となる。これより機織りの効果音が、葛の葉が保名に呼ばれて機屋から出るまで断続的に続くが、機織りの音が途切れるのは芝居や浄瑠璃の邪魔をしないという以上に、途切れたところで、 葛の葉は機織る手を止めてことの成り行きをじっと聞き、思い入れをしている訳であるから効果音(たいてい、お弟子の役目)と云えども徒や疎かには出来ないのである。

雀右衛門伝説 第5章 葛の葉研究 その1
師の「葛の葉」初演は、復員して、友右衛門襲名後の昭和23年10月の三越劇場で、型の詳細は不明だが、三宅周太郎の評(続演劇手帳)によれば、文楽の人形(栄三)の型を取り入れたり、道行を本文通りに復活したりと、血気盛んな師らしい好舞台と評判だったらしい。師は上演に当たって、武智鉄二師の紹介で山城少掾師に教えを乞い、狐言葉や息の詰め方を伝授されたと再三語っている。

師は友右衛門時代の葛の葉はこれ1度切りで、ずっと飛んで昭和51年12月京都南座の顔見世で、雀右衛門になって初め葛の葉を所演する。この折に中村松若さんに京屋の型を詳細に伝授され、それ以降、昭和52年9月歌舞伎座、昭和56年6,7,8月地方巡業、平成2年6,7月地方巡業、平成3年1月中座、平成15年6月歌舞伎座まで、師が京屋の型に拘った唯一の舞台がこの葛の葉である。

松若さんは、上方歌舞伎の生き字引のやうな方で、その型付けノートは約200種あると云われ、没後はそのノートは国立劇場に寄贈されたという(未見)。
松若さんは、現山城屋丈にも、初代鴈治郎の葛の葉の型を写したと仄聞するが、三世雀右衛門も三世梅玉も大根は、この初代鴈治郎の型に拠り、それを各々がアレンジしたとみていい。
先代雀右衛門は、大正5年9月新富座で芝雀時代に初演し、次いで大正6年10月大阪浪速座での三代目襲名時に勤めている。襲名の折に勤めるくらいだから、京屋所縁の演目と云って差し支えないだろう。(国立劇場発行の上演資料集239号に拠れば、大正9年神戸日本劇場での上演記録もあるが、その後510号にその記載が削除されている。あるいは記載漏れか?)
話しは戻って、昭和51年暮れの顔見世で師が京屋の型で葛の葉を初演すると聞いて、貧乏学生だった私は押っ取り刀で夜行バスに乗り込み京都に向かい、3階席のてっぺんで食い入るやうに見物して、その夜は友人の下宿先へ泊まり込み、翌日は新幹線に乗るお金も、もう1度見物するお金もないから、夜までジッと待って(笑)また夜行バスで東京に戻るという、いま思うと学生らしい思い出である。この時は、二人椀久の松山というおまけまで付いてまさに至福の顔見世だった!閑話休題
さて、その師の葛の葉は、南座の額縁と相俟って古風でしっとりと、哀れ深い、暗い獣性を帯びた、鳥肌が立つやうな出来栄えだった!
亡くなった宗十郎丈の保名もやつし事の典型で、その味わい、色気とも絶後であろう。

のちに聞いた話しだが、この時同座していた先代中村屋丈は、師の葛の葉の舞台を観て、京屋の型が一番いいと云ったそうである。
幕切れに道行を付けず、幕外の引っ込みになるのは、この南座以来一貫しているが、私が師に直接聞いたところによると「これは京屋の型なんだよ。道行は狐別れ(師は子別れとは絶対云わなかった)とまた同じやうな繰り返しになるから、幕外の引っ込みで締め括ったほうが纏まりがいい」と語っていた。私は先代も道行はしなかったのかと判断したが、先ほどの資料集によれば、先代も道行と差し駕籠は必ず付けたらしい(昔は何方もほとんどそうだったらしい)。ということは、狐別れのあと幕外の引っ込みになり、あらためて、道行の幕を開けたということか?(大方のご教示を願いたい)
いずれにしても、道行帽子を付け、黒の塗笠と銀の杖を持って、行列三重に送られて、差し出しの焔の揺らめく中を、泣きながら(この泣き声が狐の遠吠えに聞こえるという工夫)引っ込む師の姿は絶品である。
なお、南座の折は引き抜かず、鼠紫繻子地の万寿菊裾模様の着付のまま引っ込んだ。秋草模様の白地に引き抜くのは、翌年の歌舞伎座所演からである。

雀右衛門伝説 第4章
六代目尾上菊五郎師が亡くなって友達がたくさん出来たと皮肉ったのは、劇作家の宇野信夫師だが、故人を語ることはどうしても自分との関係性の中でしか語れない。まして師匠と弟子の間柄では尚更だ。
どうかベタな記述をお赦し願ひたい。

まず、昭和30年代から40年代に掛けて師の舞台の思い出を綴ってみたい。
師の舞台を初めて観たのは、友右衛門時代、昭和38年6月の歌舞伎座夜の部、先代中村屋初演の「大江山酒呑童子」の間狂言で、友右衛門、福助(先々代)、扇雀(先代)といふ今から思えば豪華版だった。私は8歳だった。
歌舞伎好きの祖母は私を抱き児の時分から芝居に連れて行ったと云ふが、師の記憶はこれが一番古い。
翌7月、同じく歌舞伎座昼の部「生きている小平次」のおちか。大詰、疲れ切って一歩も歩けない身体を引き摺りながら「お前さん、待っておくれよ〜」と逃げる夫太九郎(先代中村屋)を必死に追いかけて舞台の奥へ奥へと消えて行く後ろ姿と声音を8歳の私ははっきり憶えている。

同9月、歌舞伎座夜の部「義経千本桜」鳥居前・渡海屋・大物浦・道行・川連館の通し。2代目松緑旦那の知盛と忠信の大奮闘!師は典侍の局。典侍の局はあまり記憶がない。余談だが、渡海屋奥座敷で、正面の屋体が相模五郎の出で上手に少し引き道具になったことは覚えている(その後、引き道具の演出は観たことがない)
私は変なませた子供!?で、その折に祖母が購入してくれた筋書に、昼の部の中野実作「褌医者」の大詰土手上で、松緑旦那の主人公慶斉と師の妻いくが瓢の酒を酌み交わす舞台写真が載っていて、その師の、丸髷姿の博打好きの糟糠の妻が実にいい感じで心奪われて、観たくて観たくて仕方がなかった!(それは叶わなかったが、後年、紀尾井町の旦那と梅幸旦那でこの「褌医者」を初見して改めていい芝居だと実感した)閑話休題

翌39年4月歌舞伎座初演の「二人椀久」(竹之丞襲名・夜の部)は見逃したが、5月歌舞伎座昼の部で11代目成田屋丈の菅丞相、8代目三津五郎丈の源蔵で伝授場の戸浪を観て、9月歌舞伎座が雀右衛門襲名。昼の部「金閣寺」の雪姫を観た。冒頭、緑色(子供には印象深い)のモジ張りの障子が開くと艶やかな雪姫の姿。爪先鼠の段で、豪雪のやうに降り積む桜花。この2点が今も鮮やかに目交に浮かぶ。

その後もいろいろ観たが、円地文子作「なまみこ物語」のくれは(41年9月歌舞伎座夜の部)や、「西郷と豚姫」の岸野(42年4月歌舞伎座夜の部)、など傑作はあるものの、これからの数年は総じて印象が淡い。
42年8月演舞場夜の部、初役の政岡も、田之助師の沖の井が素晴らしくて、政岡の存在感は希薄だった。

私が師の女形芸をはっきり意識し出したのは、少年から青年への移行期、いわゆる性に目覚めて以降である。
故勘彌丈の与三郎、8代目三津五郎丈の蝙蝠安、17代目羽左衛門丈の多左衛門での、見染めから源氏店(47年5月歌舞伎座昼の部)のお富。なんて色っぽいのか!と陶然となった。(この顔ぶれの源氏店はまさに大人の芝居だった)
第6回「春秋会」での陣屋の相模(47年2月国立劇場)、「男女道成寺」の花子(同年4月歌舞伎座夜の部、澤瀉屋の狂言師)、「乳房榎」のおきせ(同年9月国立劇場)、「引窓」のお早(同年10月歌舞伎座昼の部)等々、47年は当たり年だった。
私の5歳年上の友人は師の「蝶の道行」の小槇(49年1月歌舞伎座夜の部)を評して、「京屋は子宮で踊っている」と云った。私はなるほどと痛感した(その後、53年6月末歌舞伎座、第1回矢車会の「二人椀久」でも、その友人は同じことを云った)

だが、師の芸は40年代末から再び迷宮入りする。
その頃の師の芸風は、陰々滅々である(戸部銀作・志野葉太郎)とか、不健康な感じ(安藤鶴夫)がする、死の匂い(石崎勝久)がするとかあまり芳しくない。
しかし、武智鉄二師は「京屋の芸には凄みがある。それは1秒か2秒だが誰も真似手がない」と云い、堂本正樹氏は「京屋には伝奇的な味わいなある」とも評した。
師が真価を発揮し出すのは、昭和51年12月南座での「葛の葉」(京屋型初演)以降である。
雀右衛門伝説 第3章
3月15日 17:30  先斗町 し乃
 京都先斗町と木屋町の通り抜けの路地奥にし乃という飲んで食事の出来る小さな店がある。私は役者になって初めて南座の顔見世に出勤した折(1982年12月)、師に連れて行って頂いた。その時、頭取の間宮さん(先輩の故人京五郎さん)がへべれけになったので、間宮さんを私が抱きかかえてホテルへ送り届けて、さて、し乃さんへ戻ろうとしたところ、、まだ土地不案内な上、私も酔っ払っていて、何処の路地を曲がったやらさっぱりわからず、お店の電話も知らず、携帯もない時代だから、やむなく宿へ戻ってしまった(人に聞けばいいって?、まだまだ初心だったんです) あとで師に「何処へ行っていたんだ!」と叱られた。

 そのし乃さんへ、大阪の豊さんをお連れした。豊さんは天満天神門前のカウンター割烹「豊」の女将さん。知る人ぞ知る名店だったが、惜しまれつつ一昨年閉店した。豊さんはお母上の代から大の京屋ファン!この「豊」さんへも師のお供で何度か伺った。

 師が来るとなると、お母上はご高齢にもかかわらず、美容院へ行って綺麗にセットして、暖簾の奥からちょっと恥ずかしそうに師の前でお出ましになった。その姿が愛らしくて、奥床しくて、今も目に浮かぶ。

さて、そのし乃さんで、豊さんとふたりで師を偲ぼうと相成った次第。

 し乃のご主人に豊さんをご紹介して、まずビールで献杯して、師の思い出話しに打ち興じていると、ご主人が「こんなものがありますよ」とスコッチウイスキーのボトルを持ち出した。飲み掛けの師のボトルだった!(写真)

 師は山城屋さんの襲名で上洛したのが最後で、その時分はもう身体も弱っていたし、し乃さんへも出向いていないはずで、だからこのボトルはそれより以前のかなり年月の経ったものだ。

 ボトル向かって右側に書かれたJKの文字は、言わずと知れた愛称ジャックのイニシャル。左側の二人椀久の松山の写真は、師がフランス公演の折に配り物として作成したもので、手元に数枚あったので、豊さんへの形見の品として持参した。このボトルと写真の前で、今度は日本酒で献杯。ご主人が、このウイスキーを飲みなさいとおっしゃったが、とてももったいなくて飲めない!

 まだ何処かの店で、師の飲み掛けのボトルが、訪れる人を待ちわびているかもしれない。

3月23日 14:30 寺町 清課堂
 いつもお世話になっているH氏が上洛されたので、そのお供で寺町の清課堂を訪れた。ここは金属工芸の専門店。

 何気なく目に留まったのが、銅製の竹に雀の香立。師のお使いみたいに思われてジッと見入っていると、H氏が「よく見つけましたね、購入して差し上げませう」とおっしゃって下さった。

 この師のお使いの小雀は縁あって私の手元に舞い降りた。
雀右衛門伝説 第2章
2月29日 11:00 青山斎場 四世中村雀右衛門葬儀告別式
師の逝去当日から、納棺、通夜、告別式、初七日まですべて取り仕切ってくださったのは、石川県輪島市の曹洞宗大本山總持寺監院の今村源宗師である。
源宗師は、師雀右衛門とは三十年来の親交があり、私も源宗師とは同時期より奇しくも知遇を頂いていた。
師は後年、源宗師に後事をすべて託していたと、告別式当日に源宗師より伺った。
禅宗では、告別式の葬送法語(いわゆる引導)は漢詩様式をもちいるのだそうで、この度も、源宗師渾身!の漢詩が師へ手向けられた。

その漢詩が師の全人生を見事に言い尽くして余すところなく、ほとほと感に堪えた!私がここで贅言を費やすまでもない。
その葬送法語を、源宗師及びご遺族の友右衛門丈のお許しを得て、ここにご紹介させて頂く。
どうか、しみじみ師を偲んで頂きたい。

※源宗師の漢詩はこちらをクリックしてご覧下さい。
雀右衛門伝説 第1章
2月23日15:55
師四代目中村雀右衛門が突然旅立った。いづれ覚悟はしていたが、いつも唐突に電話をしてくる(真夜中だろうが、明け方だろうがお構い無く)、旦那らしい最期だった。
正直云って、自身の美学、スタイルも大事にする師匠だったから、病床の雀右衞門なんてありえなかった。私も見舞いに行くのが辛くて辛くて、のんべんと生きている自分を恥じた。
91歳。歳に不足はないものの、師は150歳まで生きたい、いや、生きなきゃ算盤が合わねえ!と豪語していたから師の無念いかばかりか。
それといふのも、いつだったか歌舞伎座の楽屋で支度をしていた時(道行の静だったと思う)、前に回っている私に「おい、京蔵。どっかの国の亀は150年くらい生きるんだってよ」と羨ましそうに云ったので、私は、その日の新聞の朝刊に写真入りでその亀の記事が出ていたのを思い出し、ははあ、師は亀のやうに150年生きたいのだと納得した。
そこで私は「そうらしいですね、旦那はお丈夫ですから、それくらい生きられますよ。でも私達弟子も、松っちゃん(衣裳の 松本さん)もその時分はもう誰も居ませんから、この衣裳は全部ご自分ひとりでお付けになってくださいね!」と云ったもんだから一座大爆笑!旦那も苦笑いしていた。
この話しを、師が息を引き取った時の聖路加の病室で、廣太郎(友右衛門さんの長男)さんにしたら、「僕はまだ生きていると思います、70台だから」と真顔で云われたので、私は「そうか!」となんだか遠い先の話しなのか、そんなに遠くない話しなのか、頭がこんがらがって気絶しそうになった!
さらにその話しを、師が愛宕の自宅に戻られて落ち着いた頃、藤間ご宗家が弔問にいらした時にしたところ、勘祖師は「でも、おじちゃまは150年くらいの内容を生きられたのよ」としみじみおっしゃった。すると、永平寺の今村源宗導師も「ほんとうに、それくらい中身の濃い花の生涯でいらっしゃいましたね」と同感された。
私は師の、元気な頃を彷彿とさせる美しい引き締まった顔にじっと見入った。師は今にもムックリ起き上がり「まだ死んでたまるか!算盤が合わねえや!」と低い声で呟き出しそうだった!合掌

戻る


(C)Copyright 2001-2013 NAKAMURA KYOZO All Rights Reserved.